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坂本九 大島家九人兄弟の末っ子として川崎市で誕生

1941-12-10


 
第二次世界大戦勃発の2日後、午前1時25分、神奈川県川崎市南町で生まれる。父は土木請負業、母は料理屋を営む温かな家庭でスクスクと育てられたが、戦争が続き、母の実家のある茨城県笠間市に疎開していた。日大横浜学園2年生の時、立川の将校クラブで、エルヴィス・プレスリーのモノマネで歌う。

ロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演

1958-08-26


 
まだロカビリーバンドだった井上ひろしとドリフターズのバンドボーイ兼歌手となり第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演。新人賞を受賞。

マナセプロダクションに所属し、パラキンのメンバーに

1958-10-15


 
「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と芸能界を引退するが、マナセプロダクション曲直瀬正雄・花子(創業者夫妻)に見出され所属。翌11月、水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイスキングで「アイドルシンガー」として再び歌い、12月の第4回日劇ウエスタンカーニバルではロカビリー五人男に選ばれる。

青島幸男訳詞の「悲しき六十才」で、東芝レコードの専属歌手に

1960-07


 
東芝レコード移籍後の第1弾シングルとして、「ムスターファ 」(Ya Mustafa)を日本語にカバーした「悲しき六十才」(訳詞:青島幸男)をリリース。ヒット連発でこの年の12月東芝専属契約を結ぶ。

アイドルなんて言葉が無い時代、「お茶の間の人気者」と呼ばれ

1960-09


 
「頭がデッカク、顔はニキビだらけ」〜よくも歌手になったと雑誌に書かれる。 ひそかにニキビとりの薬を買いまわるが、どこへいっても特効薬なし  自宅にはファンからのニキビとり珍薬が殺到

「ステキなタイミング」「遥かなるアラモ」…ヒット連発!

1960-10


 
「ビキニスタイルのお嬢さん(It`y Bit`y Tiny Winy Yellow Polka Dot Bikini)」、「ステキなタイミング(Good Timi`n)」などの海外のヒット曲をカバーし、ヒット連発!  テレビ・ラジオに引っ張りだこ

初主演映画「悲しき60才」が大映東京撮影所でクランクイン

1961-04-05


 
NETテレビ「ピアスナインショー」で森山加代子さんとコンビを組むなどテレビ・ラジオのレギュラーが週10本。そんな中、 総天然色シネマスコープの主演作品が3月3日にクランクイン! 4月5日封切り!

芸術座 三木のり平さんの舞台「私は悪党」出演中、盲腸で入院

1961-06-04


 
菊田一夫先生の舞台に初出演。日劇とかけもちで、2分で芸術座に駆け込んでいた。2日ほど痛みをこらえていたが舞台の袖で倒れ、麻布の古川橋病院で急性盲腸炎の緊急手術。入院中、白土三平のマンガを読み尽くす。

「夢あい」今月の歌で「上を向いて歩こう」を歌い大反響!

1961-10-07


 
NHKテレビ「夢であいましょう」のコーナー「今月の歌」で「上を向いて歩こう」を歌うと、番組には楽譜希望のハガキが殺到。年末の「第12回NHK紅白歌合戦」にも初出場。

「上を向いて歩こう」日活で「銀恋」と二本立で大ヒット!

1962-03-04


 
各社が名乗りを挙げ、水の江滝子プロデューサーの日活が映画化。日活青春トリオの吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹さんと 桝田利雄監督のアクションを盛り込んだ傑作歌謡ドラマが名作が誕生。タイトル部分は、前年公開の「ウエストサイド物語」の影響か。

森山加代子さんマナセプロから独立‥コンビ解消かとファンは心配

1962-06-18


 
「マイマイショー」「ピアス・ナインショー」、映画「悲しき60才」など、九ちゃん加代ちゃんは「ニキビとおさげのコンビ」で大人気。20歳になった頃から「熱愛中!」との噂が立ち始めていましたが、森山加代子さんの独立でコンビ解消!に‥。

海外のショウビズを肌で感じて‥初めてのヨーロッパ旅行

1962-08-19〜09-02


 
テレビ、ラジオ、映画や舞台にと大忙しの九ちゃん。これからは「世界の坂本九に!」と、マナセプロの社長同行で、初めてのヨーロッパ旅行に。
 

東芝レコードのジャケットから(写真:週刊平凡)

「上を向いて歩こう」がアメリカで発売され、ミリオンヒット!

1963-06-15


 
「上を向いて歩こう」が、米国キャピトルレコードより発売になり、6月にはビルボード誌キャッシュボックス誌共に第1位を獲得。その後、世界70カ国以上で発売され、総売上は1,000万枚を超えた。

創作ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」上演

1963-06-18


 
和製ミュージカルの原点とも言える作品で、1960年にいずみたく、永六輔、 伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズの主演で初演。九ちゃんが是非やらせてほしいと申し出て、九重佑三子、パラキンで再演。

「SUKIYAKI」大ヒットで、「スティーブ・アレン・ショー」に出演

1963-08-27


 
「SUKIYAKI」の大ヒットで、「エド・サリバン・ショー」からオファーがあったが、東映の撮影と重なってしまう。その後、NBCテレビ 音楽バラエティ「スティーブ・アレン・ショー」からもオファーがあり渡米。

「スキヤキ」が100万枚を突破し、外国人として初めて「ゴールデンレコード」を受賞!

1964-05-15


 
5月7日、ウォーリック全米レコード協会会長来日。ここで「sukiyaki」がゴールデンレコードに選ばれたことを知る。翌週15日にホテルオークラで贈呈式が開かれ、母親いくさんと抱き合って泣く。

ブロードウェイ・ミュージカル「努力しないで出世する方法」主演で、ケネディカットに

1964-05-18


 
新宿コマ劇場6月公演「努力しないで出世する方法」出演のため、銀座東急ホテル地下の理髪店で「九ちゃんカット」から「ケネディカット」にイメージチェンジ。

オリンピックさよならパーティーで、「上を向いて歩こう」「サヨナラ東京」「君が好き」を熱唱!

1964-10-24


 
10月10日から24日までの15日間、東京で開かれた第18回オリンピック競技大会。九ちゃんはウエルカムパーティだけでなく、新宿御苑で開かれた「さよならパーティー」に招かれ、各国の選手の前でゴールデン・レコードを受賞したばかりの「上を向いて歩こう」などを披露。

浅草国際劇場で、美空ひばりさんと「新春公演・春姿松竹梅」

1965-01-06


 
大先輩美空ひばりさんの新春公演に迎えられ、「ひばり音頭」「九ちゃん音頭」では太鼓の共艶、「九ちゃんの九官鳥」では歌真似と、国際劇場の大舞台で、大奮闘!

東映動画初のスペースオペラ「ガリバーの宇宙旅行」で、声の出演

1965-03-20


 
坂本九ちゃんは主人公テッドの声を担当。まだまだニキビがいっぱいだったちょっとハスキーな23才の声。録音開始は昭和38年6月にスタートしたが、途中で九ちゃんの声変わりがあり、一部録り直しもあったとか。

日本テレビでワンマンショー「九ちゃん!」放送開始

1965-11-04


 
全国16局ネットで毎週木曜夜9時「九ちゃん!」がスタート。てんぷくトリオとのコントや、スタジオNo.1ダンサーズとの踊りもいっぱいの30分。2,000人を超えるホールでの公開収録も話題でした。

大阪労音1月例会・大阪フェスティバルホールで昼夜満員の22回公演

1966-01-03〜30


 
正月3日からスタートした「大阪労音1月例会坂本九」は、「九ちゃん!」「夢であいましょう」などレギュラー番組出演の間を縫って、13日間全22公演というハードスケジュールの中、満員のお客様のあたたかい拍手が鳴り止みませんでした。

舞台から客席まで長い列…レッツキス、頬よせて!みんなで踊ろう!

1966-09


 
放送時間が土曜の夜に移った日本テレビ「九ちゃん!」が、更に人気沸騰!新曲「ジェンカ」が発表されると、公開放送の会場となった渋谷公会堂は、九ちゃんと一緒に踊りたい!と学生から子どもまで「♬レッツキス・ジェンカ」の長い列が続きました。

待望のファンクラブ「坂本九後援会」青山・神宮前で開所!

1966-12-09


 
テレビの公開放送やステージが続き、ファン同士、顔見知りが多くなってきたタイミングで「坂本九後援会」発足のニュースが舞い込んできました。神宮前の事務所には、スタジオ移動の合間の九ちゃんも立ち寄って、気軽におしゃべりができる場になりました。

ちびっ子たちを招待して「レット・キス」60万枚突破記念パーティ

1967-05-08


 
日本テレビの人気番組「九ちゃん!」で、会場のみんなと踊ったジェンカが幼稚園や小学校のちびっ子たちにも大人気。招待客はアメリカンスクールの子どもたちとファンクラブの皆さんだけ、という60万枚突破記念パーティが東京赤坂のヒルトンホテルで開かれました。

大阪万博の若者代表として吉永小百合さんと懇談会委員に選ばれる

1967-08-15


 
大阪で3年後に開かれる万国博の政府出展懇談会のメンバーに、吉永小百合さんと若者代表として選ばれた。9月5日、石坂泰三万国博会長のメッセージを持参してモントリオールへ出発。13日、日本館で「Sukiyaki」を歌って大阪万博のPR。

九年目、初のリサイタル 満員の渋谷公会堂 拍手が鳴り止まず

1967-11-05


 
9年目にして初めてのリサイタル「芸人(Showman)その九年目」が、渋谷公会堂で昼夜2回公演され、どちらも超満員。九ちゃんの熱唱にアンコールの拍手が鳴り止まず、なんと繰り返すこと9回と、ファンも大満足のコンサートでした。

太陽はさんさんの佐島マリーナで「IKUE Jr.号 進水式」

1968-07-03


 
クリーム色の帽子に濃紺の上着、白のズボン。船長スタイルに身を固めた九ちゃんに、招待された後援会会員からも「ステキ!」の声が。進水式、祝賀会の後、一通りゲストをお乗せしたあと、会員も乗せていただき、九ちゃんの案内付きで湾内一周のクルージングを楽しみました。

朝日新聞連載の人気漫画「フジ三太郎」がTBSで連続ドラマに

1968-10-06


 
原作のサトウサンペイさんも杉江監督もピッタリと太鼓判のフジ三太郎=坂本九というキャスティングに加え、学生夫婦みたいな仲の良い 奥さんのびわ子に宮本信子さん、一緒になって遊んでいるような息子、小太郎に矢崎知紀クンと、初めて奥さんと子供のいる役に挑戦の九ちゃんです。

ファンも記者も大勢お祝いに駆けつけて「27歳の誕生パーティ」!

1968-12-12


 
「九ちゃん婚約発表か?!」の一部ニュースで、新聞、雑誌記者も大勢集まったホテルニュージャパン。9段もあるバースデーケーキの周りに集まって後援会メンバー有志9名による「九ちゃん音頭」や「明日があるさ」の熱演やブラジルからのおみやげの宝石などが当たる抽選会など大賑わいの夜でした。

ザ・ピーナッツ10周年記念公演の日替わりゲストに九ちゃん出演

1969-02-04


 
有楽町日劇で1月22日から14日間開催された「ザ・ピーナッツフェスティバル」の日替わりゲストに九ちゃん出演。歌番組などで同じステージに立つことも多く、息の合ったステージを披露しました。

ファン集合!後援会の皆さんと「坂本九の結婚について」テレビ討論!

1969-05-21


 
フジテレビ 「テレビナイトショー」のスタジオに各地のファンや後援会の皆さんが集結! マナセプロのスタッフ、後援会会長で兄の東さん、八千代お姉さんも参加して、「結婚」について素直な意見が出されました。

新曲「蝶々」「自動車コ・ブーブーブー」発表会を銀座三越で開催

1969-06-15


 
新曲発売記念のサイン会が銀座三越の屋上で開催され大勢のファンが集結。その後、元歌が「春歌」と判断され、放送では歌えなくなり、カップリング曲「自動車コ・ブーブーブー」に切り替えられました。

大阪万博の年、「クイズEXPO`70」「マイホーム`70」と超多忙‥

1970-01-09


 
67年発表のテーマソング「世界の国からこんにちは」から始まり、 政府出展懇談会委員、お祭り広場のショウや豪華ゲストが出演するクイズ番組のMCなど多方面で活躍した一年でした。

年の離れた奥さんに八千草薫、長女に加賀まりこ、次女は岡崎友紀‥

1970-01-02


 
TBSの1〜3月は、八千草薫さん、加賀まりこさんと共演の「マイホーム`70」。脚本は、1961年の「教授と次男坊」、63年の「ぼうや」に続く倉本聰さんにジェームス三木さんが加わりコミカルなドラマに。

真夏の大阪梅田コマ劇場7月公演は「わが歌声の高ければ」!

1970-07-04


 
第1部はグランドショー「みんなの九ちゃん」。トム・ジョーンズの「最後の恋」やお得意のダンスナンバーも披露。2部は前年11月に放送されたNHK銀河ドラマ「わが歌声の高ければ」をミュージカルで!

九ちゃん婚約発表!「僕についてくれば間違いなく幸せになれる」

1971-08-23


 
23日午後2時、高輪プリンスホテルで婚約発表。日本テレビ「おはようこどもショー」の収録の合間を抜け出してかけつけた九ちゃんに、記者から矢継ぎ早の質問が相次いだ。式は12月に笠間で。披露パーティは「カレーライス・ダンスパーティ」でした。

迫力のサウンド!「小俣尚也とドライビングメン」が最後のステージ

1971-08-29


 
日本テレビ「九ちゃん!」や数々のライブでバックバンドとしてステージを創り上げてくれたビッグバンド「ドラメン」が、この日、行田市で行われた「坂本九ショー」を最後に解散。あの迫力のドラムもトランペットも、もう聞けないのが残念です。

九ちゃんが杉田玄白役に。話題のドラマ「天下御免」放送スタート!

1971-10-08


 
NHK総合テレビで、原作、脚本、早坂暁さんによるドラマが、71年秋から1年間放送されました。72年には「放送批評家賞(ギャラクシー賞)」など話題を総なめ。九ちゃんは全46話のうち、24話に出演。

真夏の大阪で新妻・由紀子さんと1ヶ月公演。舞台も客席も熱々に!

1972-07-01


 
大阪万博の年の「わが歌声の高ければ」では、高田美和、浜田光夫さんと共演。翌71年の「明治一代男」では、中尾ミエさん。そして1972年は「ごんだくれ太鼓」で新妻、柏木由紀子さんとの共演で、大阪梅田コマ劇場は今年も暑さ倍増

憧れのエルヴィス・プレスリーのヒット曲を大胆にアレンジ

1972-07-05


 
エルヴィス・プレスリーに憧れ、米軍キャンプやジャズ喫茶で歌い始め、瞬く間にそのエンターティナーとしての才能を発揮させた九ちゃん。最新アルバムは、憧れのプレスリーのヒット曲を大胆にアレンジした意欲作!

東宝喜劇の当たり狂言を8年ぶりに再演。年末は宝塚劇場で笑い納め

1972-12-03


 
夏の梅田コマ公演に続き年末は東京宝塚劇場と、すっかり舞台人になった九ちゃん。菊田一夫作、三木のり平演出、そして音楽監督は古関祐而、いずみたくというレジェンドに囲まれての1ヶ月公演を乗り切りました。

二谷英明さん、京マチ子さんと共演。連続ドラマ「まんまる四角」

1973-01-05


 
北村篤子脚本のホームドラマで、しっかり者の女房とお人好しの亭主が巻き起こすカラリと明るいホームドラマ。九ちゃんは主題歌も。

黒子の九ちゃんの講談風の語りが子供たちに大好評!「新八犬伝」

1973-04-02


 
「チロリン村とくるみの木」「銀河少年隊」「ひょっこりひょうたん島」と続くNHKの連続人形劇。 怨霊や 八犬士が活躍する奇想天外な物語を、九ちゃんの名調子で大人気に。

114人で満席の渋谷ジャンジャンで、9月9日に「99円コンサート」

1973-09-09


 
当時、入場税がかからない限度額が100円以下だったため、 坂本九の名前と合わせて「無税」となる99円でコンサートを開く。もちろん、会場と同時に満員御礼で立見までぎっしり。

NHKの人気番組「連想ゲーム」にレギュラー出演。勘の良さも発揮して

1974-01-05


 
土曜の夜のファミリータイムは「連想ゲーム」。九ちゃんのレギュラー出演は、73年4月から74年の年末までの1年8ヶ月。ヒントや答えなど台本が無く、キャプテン加藤芳郎さんとの連携プレイや、天地総子さん、檀ふみさんらとの仲の良さも伝わる番組でした。

スタジオに200人の親子ペアが参戦!ジャンボクイズ100対100

1974-10-07


 
フジテレビ10月からの新番組は、毎回100組200人の親子が参加する公開番組。毎回ゲストも豪華で、司葉子さん 若尾文子さん 西城秀樹さん 山口百恵さんを始め12月30日の最終回には加山雄三さんも。

ベスト・アーチスト・シリーズ「坂本九全曲集」リリース!

1974-12-01


 
1970年の「坂本九ひっと・ぱれーど」以来4年ぶりとなるベストアルバム。「全曲集」と言うには、わずか12曲と、初期の和製ポップスが選曲されていない物足りなさはありますが、ジャケ写の笑顔でカバー。

ATG系映画「吶喊」で語りの老婆、劇場版「新八犬伝」も黒子役に

1975-03-15


 
岡本喜八監督作品「吶喊」では、映画の巻頭と巻末にだけ現れる老婆役で。同時期に公開の「東宝チャンピオンまつり」では、NHKの人形劇で子供たちから大絶賛の黒子役と、声はするけど姿が見えず、ファンはため息‥。

日立のククレットで由紀子さんと、レッツ・クッキング!

1975-04〜


 
「♬レッツ・クック・ククレット」と「レット・キス・ジェンカ」のリズムに乗って、電子レンジのテレビ・コマーシャルで夫婦共演。ククレットフェア」では、「若者たち・襟裳岬」のレコードが記念品に。

新しい日本のスタンダードソングを歌い継ごうと、積極的にカヴァー!

1975-12-01


 
小田和正、井上陽水、南こうせつ、吉田拓郎と次々と生まれてくる新鮮な楽曲。若い世代の歌というだけでなく、広く日本のスタンダードとして育っていく粒ぞろいの曲を積極的にカヴァーしたアルバム「ターニング・ポイント」が誕生しました。

松山善三監督作品「泣きながら笑う日」ロケ地、広島で先行公開

1976-06-11


 
「名もなく貧しく美しく」の松山善三監督、脚本によるオリジナル作品。耳に障がいを持った子どもを持った家族の葛藤を描くが、ロケ地の広島、福山で先行公開 されるが、内容が暗すぎると東京では上映されなかった。

日本人の主食「ごはん」にスポットをあてた「キッチンパトロール」

1976-04-03


 
この年始まった「キッチンパトロール」と「ふれあい広場サンデー九」は、共にこの先9年以上続くことになる長寿番組に。農林水産省や北海道電力提供というメジャー企業提供と言うだけでは無かった。

北海道だけのローカルネットで、福祉番組「サンデー九」スタート。

1976-10-03


 
ただマイクを持って施設を回っても、それでは福祉のお兄さんと変わらない。大劇場やテレビでスポットライトを受けて歌う姿も見せてこそ、子どもたちは喜んでくれると、道内でも積極的にチャリティショーを行った。

スヌーピーミュージカル「君はいい人チャーリー・ブラウン」上演

1977-05-02


 
マンガや映画で日本でも大人気の「スヌーピー」がミュージカルになって、新橋ヤクルトホールで全20回の公演。九ちゃんはチャーリーブラウン役で、スヌーピーは宇田郁馬さん。その後、小堺一機さん、市村正親さんで再演されています。

ジャズ喫茶ACB、ラ・セーヌから17年‥新宿ルイードでライブ!

1977-08-21


 
この年の夏、新宿駅東口のライブハウス「ルイード」に4回出演。デビュー当時の「ジャズ喫茶」と同じステージと客席の一体感に、詰めかけたファンも大満足のステージでした。

NHK「ビッグショー 坂本九 星空に歌を!」ON AIR

1977-08-21


 
NHKテレビの人気番組「ビッグショー」に九ちゃん登場!「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」など、歌って踊って汗びっしょりのステージでした。

名古屋名鉄ホール2月公演「雪だるまが笑った」「1.2.3.and九」

1984-02-14


 
お芝居は、昭和48年1〜6月のTBS連続ドラマ「まんまる四角」でご一緒した沢田雅美さんと恋人役で共演 !2部のショーは懐かしのロックンロールから始まり、ラストソングは発売前だった「二十一世紀の歌」。

日本の祭り」サヨナラ日本の祭り 熱きファイナル!

1984-08-10〜12


 
真夏の神宮外苑で14年目を迎えた「日本の祭り」も、いよいよこの夏限りで終了。現地まで足を伸ばさないとなかなか観れない「各地の祭り」が神宮で一同に介して観れると大人気でしたが‥。

テレホンショッキング「笑っていいとも!」

1984-11-02


 
フジテレビお昼の人気番組「笑っていいとも!」に小沢昭二さん、永六輔さん、中村八大さんに続き九ちゃん初登場。恒例の「ともだちの輪!」のポーズがタイミングよく出来ずに汗だくの九ちゃんでした。

FUN HOUSEよりシングルレコード「懐しきlove-song/心の瞳」発売

1985-05-22


 
FUN HOUSEに移籍後、初のシングルレコード「懐しきlove-song」「心の瞳」をリリース。「懐しきlove-song」は、NHK「古賀政男記念音楽大賞」に入選。その後、「心の瞳」は千葉県の中学校の音楽教師により合唱曲としてアレンジされ、歌い継がれています。

「懐しきlove-song」で、第6回古賀政男記念音楽大賞に入賞

1985-06-08


 
NHK総合テレビで生放送された「古賀政男記念音楽大賞」に、森進一、森昌子、細川たかし、鳥羽一郎さんら14名の中から入選作に選ばれました。「懐しきlove-song」と同じ荒木とよひささんの作詞は2曲、三木たかしさんの作曲は3曲もある中での受賞です。

NHK-FM「歌謡スペシャル 秋一番!坂本九」収録後‥。

1985-08-12


 
NHK渋谷放送センター505スタジオで公開収録されたNHKーFMのスペシャル番組「秋一番!坂本九」では、「ステキなタイミング」や「上を向いて歩こう」などのヒット曲から、最新作「懐しきlove-song」「心の瞳」までを熱唱。その後、日航機で大阪に向かい帰らぬ人となりました。